原家の歴史 - 【公式】株式会社 原マネージメント
原家の歴史

History
ルーツ
原マネージメントのルーツは原家にあります。
原家は江戸時代に幾度も氾濫を繰り返す
多摩川の水害から人々の暮らしを守るために
頑丈な石橋を方々に架けたことから
「石橋」という屋号で呼ばれ、
地域の人々に親しまれてきました。
始まりは江戸時代
原家の人々(昭和2年 撮影)
原家は17世紀頃の豪農が始まりといわれ、かつては「人の土地を踏まずに川崎大師まで行けた」という話が残されています。(川崎市立日本民家園(2008)『日本民家園収蔵品目録10旧原家住宅』より)

地域に根差した商売や不動産事業、県議会議員も務め、地域社会の発展に貢献。4代目から9代目までは代々「文次郎」の名を襲名してきました。現当主正人は12代目にあたります。
原家の家系図
屋号は「石橋」
石橋の「イ」をあしらった家印
当時から小杉周辺には同じ名字の家が集まることが多く、互いを区別して呼び合うために屋号が使用されていました。
原家は「石橋」という屋号で呼ばれていますが、これは毎年のように洪水を繰り返す暴れ川「多摩川」の水害を防ぐため、田畑のあぜ道など、方々に大小の石橋を架けたことに由来します。
家紋は亀甲花菱、家印は○に石橋の「イ」です。
菩提寺にある先祖代々の墓石にも家紋と屋号のみが記されており、原家が屋号「石橋」で親しまれていたことが分かります。
亀甲花菱の家紋
事業の歩み
肥料・穀商売に始まり、
銀行を興し料亭を営み、
さらに地域の代表として政治に関わるなど、
常に時代が求める声に応えてきた原家。
地域の人々の暮らしを
豊かにしたいという想いが今、
その土地にふさわしい住空間を創造する
事業へと発展し、
現在の原マネージメントがあります。
肥料から呉服まで
天明4年(1874)、肥料問屋に始まった原家の商いは、材木問屋、醤油・味噌屋、油問屋(灯明油)、呉服屋と当時の生活の要であった様々な品を扱っていました。
それらの物資の運搬には渡し船を使い多摩川を渡っていました。その後、それぞれの商売は各分家へとのれん分けされました。
江戸時代の丸子の渡し
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
石橋呉服店の建物(大正14年)
 
銀行を創業
明治33年(1900)、9代目 文次郎は銀行業へと乗り出し
「玉川銀行」を創業、初代頭取となります。
中原街道沿いの西明寺近くに本店を構え、
用賀、洗足、馬込などにも支店を拡げていきました。
玉川銀行の正面入口(昭和2年)
東横線の用地提供に協力
県議会議員でもあった9代目 文次郎は、東急創業者の五島慶太氏から請われ、東横線の用地の提供に協力、東横線の開通・発展に貢献しました。
五島氏は大ぶろしきに包んだ現金を持ち込み、原家旧母屋に泊まり込みで沿線の用地取得の構想を練ったといいます。
東横線鉄橋(東京側より)。
左側は丸子渡船場(昭和7年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
新丸子の東急分譲地(昭和6年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
東横線新丸子駅西口(昭和6年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
南武線との交差地点に建てられた仮の
東横線武蔵小杉駅(昭和20年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
料亭「陣屋荘」を開業
10代目 正一は、昭和24年(1949)からの数年間「陣屋荘」の名で料亭を経営。ときには結婚式場としても使われ、地域の集いの場としても親しまれました。
昭和30年(1955)頃の最盛期には、4,5人の板前と5,6人の女中が働いていました。
昔を知る地域の人は、今でも母屋のことを慣れ親しんだ「陣屋荘」の名で呼んでいます。
陣屋荘と陣屋荘の鑑札
川崎市立日本民家園「旧原家住宅」より
陣屋荘(現在は川崎市立日本民家園に 移築・復原されている)
とそのマッチ箱。
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
モノづくり
原家の旧母屋は22年の歳月をかけて造られた明治期を代表する近代和風建築で、
現在は川崎市の重要歴史記念物として
川崎市立日本民家園に移築・復原され、
陣屋門と稲荷社は国登録有形文化財に
登録されています。
妥協なきこだわりこそ永遠の価値を生むことを私たちは知っています。
22年の建築期間をかけた原家旧母屋
上棟式での一枚。枠内は9代目文次郎(明治44年)
原家旧母屋は、明治24年(1891)8代目 文次郎のときに建設が開始され、22年という歳月をかけて9代目 文次郎のときに完成しました。
約2000坪の敷地に建設された総ケヤキ造りの豪壮な2階建ての⺠家には、荏田(横浜市)の持ち山から伐り出して10年以上寝かせたケヤキが使用され、関東大震災でも被害がなかったと伝わっています。釘などを使わずに組み上げる木工技術や左官技術からは、当時の高度な建築技術がうかがえます。
敷地内では3世代が暮らし、現当主は主屋、先代は離れで生活し、更に先々代はそのまた離れに移り住むなど、家族構成や生活様式の変化に合わせて増改築が行われました。12代目 正人は幼少期から音楽鑑賞を趣味とし、音響機器にも親しんでいましたが、それらを楽しんだ母屋2階の室内は専門家も驚くほどの高い音響効果があったといわれています。
移築前の母屋の間取り
原家旧母屋
移築された原家旧母屋
明治期を象徴する建築が復原された(平成3年)
高度な木造建築技術が注ぎ込まれた原家旧母屋は、昭和63年(1988)に移築のため解体されるまで現当主正人も実際に住んでいました。
平成3年(1991)に、外国人観光客をはじめ、多くの人が訪れる川崎市立日本民家園にて一部が復原され、平成13年(2001)には近代和風建築として川崎市の重要歴史記念物に指定されました。現在もワークショップなど各種イベントに利用されるなど、人々の憩いの場となっています。特に奥座敷を利用したカフェは、母屋が「陣屋荘」の名で料亭として地域に親しまれていた名残から「古民家カフェ陣屋荘」の名で毎年営業され、人気を博しています。
応接間
奥座敷
お寺と見まがう門構え
現在も当時のままの姿で残されている原家の陣屋門は、その門構えが寺院の造りに似ていることからかつてはお寺と間違われることも多く、時折お賽銭が投げ込まることもあったという逸話が残されています。
歴史的建造物としての価値だけでなく、地域の風致、景観の面でも利活用されている点が評価され、同じく敷地内に残された稲荷社と共に令和元年(2019)に国登録有形文化財に登録されました。
明治初期の原家旧母屋正門
現在はGATE SQUARE 小杉陣屋町のシンボルとして当時のままの姿で残されている
原家と地域を見守り続けてきたお社
「おいなりさん」を屋敷神とする原家の稲荷社は陣屋門と同じく明治時代中期頃に建てられました。社殿は全てケヤキで造られ、意匠性と精巧な細工からは職人たちの技巧の高さがうかがえます。元々は旧母屋時代の敷地東南にありましたが、GATE SQAURE 小杉陣屋町プロジェクトに伴い陣屋門近くの現在の場所に移設されました。今も変わらず原家と地域を見守り続けており、陣屋門と同時期に国登録有形文化財に登録されています。
原家の稲荷社
地域貢献
およそ400年に渡り
小杉の地域の発展に尽くしてきた原家は、
旧母屋で料亭を経営したり
小杉神社の例大祭の時は神酒所になるなど、
常に小杉の人々の交流の場となってきました。
その原家の地域を愛する精神が
当社には受け継がれています。
議員の暮らし
原家では8代目 文次郎から12代目 正人まで5代続けて神奈川県議会議員を務め、10代目 正一と11代目 正巳は議長を務めました。そのため原家には、朝早くから多くの人たちが陳情に訪れ、選挙の時には大勢の支援者や新聞記者たちが家に詰めかけたといいます。
旧母屋の前にて
11代目当主 正巳(左から2番目)と12代目 正人(右端)
原家とお祭り
秋に行われる小杉神社の例大祭では、原家が神酒所となりました。正門からお神輿が入ってくると、当主が柏子木を打ちお清めをして裏門から抜けたといいます。
かつては、原家に集まる300人~500人ほどの地域の人々にお酒や果物などを振る舞い、もてなしていました。
現在もその伝統を大切に継承し、GATE SQUARE 小杉陣屋町の竣工以後は、陣屋門プラザで現当主と原マネージメント社員が総出で渡御列をおもてなししています。
神輿をかつぐ11代目当主 正巳と12代目 正人
陣屋門プラザで神輿をかつぐ12代目現当主 正人
過去と現在を結ぶ中原街道
原家の前を通る「中原街道」。江戸時代、徳川幕府により平塚の中原と江戸を結ぶ街道として整備されたことがその名の由来です。その歴史は中世頃から東海道よりも古く、人々の往来だけでなく物資や商品の輸送の道としても利用されていました。沿道の農作物を江戸に運び、帰りにこやしを運んできたことから、次第に「こやし街道」と呼ばれるようになり、昭和の初め頃が特に盛んに利用され、昭和20年(1945)頃まで続きました。
現在のように武蔵小杉駅周辺が整備される以前は、この中原街道の小杉十字路を中心に経済・文化が栄え、ロンドンやパリのように賑わったといわれています。中原街道沿いには現在でも、原家の陣屋門をはじめ往時を偲ばせる景観の数々が残されてます。
明治から昭和にかけての中原街道沿いの家並み
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
小杉十字路にて川崎行き乗合自動車(昭和6年)
小杉村と小杉御殿
原家旧母屋のあった小杉陣屋町が小杉村だった慶長2年(1597)、川崎領と稲毛領の2つの領にまたがる人口用水(二ヶ領用水)の整備工事が始まり、小杉に「陣屋」(役人の住居や役所として使われた屋敷)が置かれました。工事の最終段階を迎えていた慶長13年(1608)には2代目将軍徳川秀忠により「小杉御殿」が造営され、鷹狩りを好んだ家康、秀忠、家光が民情視察や鷹狩りの際に利用しました。「小杉陣屋町」「小杉御殿町」という地名はこのような歴史に由来します。
慶長16年(1611)に二ヶ領用水が完成した後は、水利事情が改善し、米の収穫量が飛躍的に伸びました。その後、小杉村は沿線の物資や農作物の輸送、江戸へ往来する多くの人々で賑わい、中原街道沿いの宿場町として栄えていきました。二ヶ領用水は現在、桜の名所として花見が楽しまれる等、近隣住民の憩いの場として親しまれています。
畑や石高が記されている小杉村(文久元年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
小杉御殿の見取絵図
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
小杉御殿の碑(御蔵稲荷 昭和47年)
羽田 猛著「中原街道と周辺の今昔」より
現在の二ヶ領用水